準富裕層に到達したジャズミュージシャン投資家の日記

ジャズサックス奏者です。これまで職を転々としながら、どうしたらフラフラしながらジャズを楽しくやっていけるかを考え続けた結果、投資家になればいいのでは!?と結論づき現在に至ります。

そのままの自分で



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スターバックススヌーピーとコラボであるカードが発行された。とても可愛いので一枚購入した。

そのキャッチフレーズで

幸せはそのままのじぶんでいること

って一文があった。素敵だし考えさせられる一文だ。

そのままの自分で……ってどんなことだろう。非常に抽象的でぼんやりした表現で、たくさんの解釈が出できそうな言葉だ。確かにそのままで自分で生活できたらどんなに楽で幸せだろう……と自分は想像してしまう。

そのまま生きるのだから、そのまま好き勝手に自分の好きなように生きればいいのだろうか?他人の権利や人格を侵害してまでそうしていいのか?また他人に著しい迷惑をかけても、自分を貫き通してもいいのか?たぶん冒頭のセンテンスはそうゆうことを言っているのではないとおもう。

そのままの自分でいるということは、自分の長所も短所も、好きなところも嫌いなところもすべての自分を認めてあげることから始まると思う。そして嬉しいこと、悲しいこと、つらいこと………喜怒哀楽を感じるいろんな外的なことが起きても、風のない水面のようなニュートラルな心でいることが必要だと言っているような気がする。

 

喜怒哀楽

喜びや楽しさは、うきうきしすぎてハメを外すこともあるけれど、心のベクトルはマイナス方向に向かわないので問題はさほどない。

喜怒哀楽の中で心を乱す、ニュートラル状態を壊す感情が【怒】と【哀】だろう。

まず哀しみは他人の行動や日々の出来事から、受動的に感じることが多いのではないか。何かを感じて悲しい気持ちになったとき、無理に笑ったり、暗い気持ちのときに周りに合わせて明るくしたり、泣きたいときに笑顔を作ったり………。そんな無理はしないで、悲しいときは悲しいとき、つらいときはつらいと嘘をつかずに、素直に表現できたほうが楽で幸せだ。

そして次は怒り。怒りは自らの心のなかから作られる能動的な感情ではないか。

どうしても人は、

他人と比べて競って、優位に立ちたいとおもったり

どうして自分だけこうゆう扱いなのかと被害者感情が生まれたり

他人に期待して、どうして自分の思う通りに動いてくれないのか、自分の都合のいい方向に動いてくれないのか

などと思って怒りや苛立ちを生んでしまう。人間は機械ではないので、この感情を全く生まないということはできない。しかしコントロールすることはできるのではないか。

例えば他者と自分を比べたり他者と競うとき、相手に勝とうとしないこと。自分と他者は違うことを意識すること。点数だったりランクだったり数字で見える上下もあるが、相手が上なら相手の能力を、そして相手の努力した結果を認めればいいとおもう。また他人に期待することをやめてはどうだろうか……すべての生物にはそれぞれ意志があって、その意志で動いている。だから他人にこれをやって欲しい、あそこに行かないでほしい、あれはやらないで欲しい………そんなことを思っても願っても、自分の思い通りには他人はうごいてくれないのである。

怒りを感じない工夫に関してはたくさんのコントロールや思想がある。受動的に受けてしまいがちな哀しみの感情は仕方ない部分もあるが、怒りの感情をうまくコントロールできたら、そのままのじぶんでいることの近道になるかもしれない。

社会生活の中では、なかなかそのままの自分でいられることはできないような気がする。組織の同調圧力で自分自身さえ見失うこともあるし、くだらない出世競争に巻き込まれたりすることもあろう。しかし自分自身の判断基準みたいなものや自分の芯のようなものを持って生活していけば、必ずそのままの自分でいられるはずだと思う